知事と議会の間にある緊張関係から生ずる出来事については、客観的情報が十分に伝えられていないこともあって、県民の間には誤解もあるように感じられる。一部には、これを煽る動きもあるようだ。
例えば、「小寺通信」である。一方的な記事が多いが、その中の一例をあげると、今年の7月号には、次のような記述がある。「知事の最も重要な人事案件に対する、多数派による強引な否決の不当性については、これまで会員の皆様に訴えてきましたが、その後の知事対議会のギクシャクした関係は、基本的にここに根を発しているといえます」
これは、後藤新氏を副知事に選任する案件のことであるが、「多数派による強引な否決の不当性」という指摘は事実に反する。県議会は、知事提出の人事案件を否決する権限を持つことは言うまでもないことであるが、後藤氏については、この権限を行使するに当たり、十分過ぎるほどの時間をかけ、また、幾度となく会議を重ねて検討した。そこでは、様々な意見が出されたのである。案件の否決は、このような過程を経た上での妥当な結論であった。巷で語られているような長老支配では、このような形の結論は得られなかったであろう。
また、後藤氏の案件を否決した後に出された高木勉氏については、議会は全会一致で知事案を承認した。このことは、議会が知事提出の案件に何でも反対するのではなく、事案ごとに是々非々で臨んでいることを示すものに他ならない。議会の役割の第1が知事に対するチェック機能を果たす事である以上、これは当然のことである。
また、前期の記述の「その後の知事対議会のギクシャクした関係は、すべて基本的にここに根を発しているといえます」という指摘も、事の本質を把えない皮層的な見方と言わねばならない。
副知事選任の過程、つまり、「後藤案の否決と高木案の可決」を振り返って思うことは、議会の判断は、結果から見ても、正当であったと言うことである。そして同時に、何故小寺知事は、あれ程までに後藤氏にこだわり続けたかということである。かつて、我々の所に、庁内から「知事は、後藤氏以外の人材を認めようとしていない」という意見が寄せられていたが、庁内には物言えぬ人々の不満が積もっていたのではないか。当時、「これは、多選の弊の一端だ」という人がおり、我々もその通りだと思っていたが、この発言の重みが、今、にわかに増してきた。
更に、小寺通信は、知事選問題に触れて、「多くの県民を納得させる対立候補擁立の大義名分がないことが、なかなか候補が見つからない要因となっている」と書いているが、これもまた、的外れな言い方である。
小寺知事は、五選を目指しているが、知事の五選は、全国でもきわめて少ない「多選」である。ところで、今、「多選の弊」を叫ぶ声が全国的に渦巻いている。最近の福島県、岐阜県、和歌山県の不祥事の他、さかのぼれば、知事が逮捕、立件された主な例は次のように驚くほど多い。
福島・木村守江(土地開発の収賄容疑で逮捕、76年8月)
岐阜・平野三郎(入札指名に絡む収賄容疑で書類送検、76年12月)
新潟・金子清(佐川急便グループからのヤミ献金、政治資金規正法違反で在宅起訴)
茨城・竹内藤男(ゼネコン汚職、収賄容疑で逮捕、93年7月)
宮城・本間俊太郎(ゼネコン汚職、収賄容疑で逮捕、93年9月)
大阪・横山ノック(女子大生への強制わいせつ罪で在宅起訴、99年12月)
徳島・円藤寿穂(県発注の公共工事を巡る収賄容疑で逮捕)(以上敬称略)
これらは氷山の一角であるとの指摘もある。権力の乱用の中で、逮捕・立件にまで至るのは希であり、そこに至らない事例は非常に多いに違いないというのである。
知事の多選に弊害が伴うのは、その余り大きな権限故である。国会議員の比ではない。権限の集中するところに、乱用が生まれ、また、様々な弊害が伴うのは、権力を握る人間の性(さが)ともいえる。歴史上、権力集中による大きな弊害を克服して人類は民主主義の社会を生み出したのである。民主主義の下においても、三権分立制が取られているのは、やはり、権力集中の幣を制度的に避けようとするのが狙いである。
知事の問題を同列に論ずることは出来ないが、権限があまりに大きい故に乱用の恐れがある点では、共通である。現に多くの弊害が生じていることは、前記の通りである。ここに、多選を制限しようとする動きが生ずるのは当然である。
多選の弊害は、刑事事件に当たるものに限らない。強大な権限が期を重ねる事によって更に増し、回りの人が自由にものを言えない雰囲気が生じ、行政全般が新鮮さを失うこともその一つである。現に小寺県政には、そのような幣が濃厚だという声がある。何を持って多選であるかは一概には言えないが、三選が限界であろう。
多くの知事経験者が自分の体験を踏まえて、そう発言している。
小寺知事は5選を目指すが、5選は、現在、全国に2例しかない。このような状況を冷静に見つめるなら、小寺知事の対立候補をたてることには、立派な大義名分があるといわねばならない。いま、まったなしの改革の時代であるが、県政の改革を進めるには、行政も、県民の心も一新する必要がある。私たちは、それを妨げる要素の一つが多選であると考える。だから、知事選で対立候補を立てることには、立派な大義名分があるのである。
|